前回に引き続きエピジェネティクスについて、特に研究の歴史的な側面について考えてみたいと思います。
 一つ目は動物の発生に関わる遺伝子制御とエピジェネティクスとの関連です。動物の発生の遺伝子制御に関してはモデル生物であるショウジョウバエを用いた研究が非常に大きな貢献を成し遂げています。よく知られたものはホメオチック遺伝子による形作りに関する研究でしょう。これはホメオチック遺伝子と呼ばれる一群の遺伝子群が体の各体節の個性を生み出すことを見出したもので、ノーベル賞の受賞対象となりました。重要なのはショウジョウバエで見出された遺伝子群とその形作りの役割が、基本的に動物すべての形作りに共通するということです。ホメオチック遺伝子にはホメオボックスという生物種を越えて保存性の高い領域を含みます。この遺伝子産物は他の多数の遺伝子の調節領域に結合することでそれら遺伝子群の発現を調節します。一つの遺伝子の働きでドミノ倒しのように多数の遺伝子の働きが制御されることで形作りが起こるのです。こうしたことからマスターキー遺伝子などとも呼ばれます。
 昆虫は体節構造を持ちます。成虫の胸部体節には羽が生え、頭部体節には触覚が生えます。ホメオチック遺伝子群はこうした体節ごとの個性を生み出すのです。あるホメオチック遺伝子は胸部で働くことで羽を生じさせ、別のホメオチック遺伝子は頭部で発現することでその体節を触覚のある頭部を形作ります。ホメオチック遺伝子が壊れてしまうと各体節の個性が変化してしまいます。例えば本来2枚ばねのショウジョウバエに4枚の羽が生じたり、頭部から足が生える突然変異が知られています。
 ここで疑問がわきます。マスターキー遺伝子自身の発現はどのように制御されているのでしょうか? 実はホメオチック遺伝子と同じような形態異常を示す多数の突然変異遺伝子が見つかっていました。大きくポリコム遺伝子群とトリソラックス遺伝子群と呼ばれる遺伝子群です。大雑把にポリコム遺伝子群はホメオチック遺伝子群を負に制御し、トリソラックス遺伝子群は正に制御します。例えばある体節で発現しているホメオチック遺伝子はトリソラックス遺伝子群の働きで発現状態が持続されます。一方、別のホメオチック遺伝子はポリコム遺伝子群の働きでその体節で発現しない状態が維持されています。
 こうした遺伝子群はその突然変異体の発見、そしてその解析は古くから行われていたのですが、その全体像そして詳細はいまだ研究の途上にあります。はっきりしてきたことは、ホメオチック遺伝子自身が動物一般で保存されていたように、ポリコムやトリソラックス遺伝子群の存在、そしてその制御に関わる役割も多くの動物で大筋共通するらしいということです。そして、その制御機構がエピジェネティクスな制御と似通ったものであるとの認識です。
 ある体節がどのような構造になるかといった発生上の一過的な、しかし重要な事象は、堅固にそして確実に実施される必要がありますが可逆性は必要ありません。そうした遺伝子の制御機構としてエピジェネティクスはうってつけなのです。
 さて、もう一つのエピジェネティクスに結びついた研究例を紹介しましょう。それはヘテロクロマチンと遺伝子発現の位置効果(PEV: Position Effect Variegation)と呼ばれる現象です。 
 染色体とは遺伝子の集合体、ゲノムが細胞分裂の一時期に一過的に現れる可視的な構造体です。一方、細胞分裂期以外にも、細胞核内に絶えず存在する凝集した構造が存在します。これがヘテロクロマチンです。ともに非常に古くから知られていたものです。染色体とは細胞分裂の際ゲノムをコンパクトに凝集させ娘細胞に分配するための構造ですが、ゲノムの特定の領域は細胞周期を通じて絶えず凝集した状態にあり、これがヘテロクロマチンです。ゲノムの大部分は細胞分裂期以外は解けた状態にあり光学顕微鏡では見ることが出来ません。こうした領域をヘテロクロマチンに対してユウクロマチンといいます。では、ヘテロクロマチンとユウクロマチンの違いは何なのでしょうか? 物質的にはどちらもDNAです。そのDNAに結合しているタンパク質が違うのです。ゲノムとしての違いは活発に働いている遺伝子が存在するか否かの違いもあります。遺伝子はすべてDNAからなりますが、DNAはすべてが遺伝子ではありません。ゲノムの中には遺伝子がほとんど存在しない領域が多数あります。そしてその分布は非常に偏っています。ヘテロクロマチンと呼ばれる領域は遺伝子がほとんど存在しない領域なのです(少数の遺伝子は存在する)。一般的に遺伝子が働く、つまりRNAを合成するにはゲノムが解けた状態にある必要があります。遺伝子が存在しないヘテロクロマチンは絶えず凝集していてもなんら問題ないのです。細胞分裂を通して絶えず凝集していて遺伝子が不活発にある状態を維持するヘテロクロマチン自体がエピジェネティクスな存在といえます。なぜならある領域がヘテロクロマチンになるか否かということはその領域の塩基配列だけに依存しないということがわかってきたからです。それを示したのが遺伝子の位置効果(以下、PEVと略します)という現象です。
 これもショウジョウバエで古くから知られていた現象で、その例を紹介します。生物のゲノムには様々な変異が存在します。通常塩基配列レベルでの変異を思い浮かべると思いますが、もっと大規模な構造変化を伴う変異も存在します。染色体の逆位や転座などと呼ばれる変異です。逆位とは数百~数メガ塩基対といった非常に長い範囲のDNA配列がひっくり返って収まっているものです。例えば模式的にある染色体の遺伝子の並びをABCDEFGHと表現した場合、逆位とは、ABGFEDCHのような並びになってしまったものをいいます。BとC、GとHの間で切断が起こり、その間の配列が逆さまになって繋がってしまいます。逆位の大きさは様々で、染色体のほぼ全長に渡ってひっくり返っている場合もあります。こうした変異は一見非常に有害そうに見えますが、遺伝子とその塩基配列といったレベルで見ると案外無害なものです。何故なら、逆位の場合に塩基配列で変異が起こっているのは切断を起こし繋ぎ変わった2ヶ所だけです。もしも切断を起こした領域が遺伝子の中にあればその遺伝子には相応の影響が及びますが、先にも述べたようにゲノムの中の遺伝子頻度は存外低いものです。遺伝子間に切断、逆位が生じた場合は逆位に含まれる遺伝子を含めその影響はほとんどありません。実際にショウジョウバエの野生集団中には非常に多数の逆位変異が含まれています。ショウジョウバエは唾腺染色体という特殊な染色体が存在すために逆位の検出が容易なこともありますが、すべての生物で逆位変異は一般的なものと考えられています。
 さて、話が脇にそれましたが、この逆位の片方の切断点がヘテロクロマチン内に、もう片方の切断点がユウクロマチン内のとある遺伝子の近傍に起きた逆位が存在します。とある遺伝子とはホワイト遺伝子(以下w遺伝子と略す)という、ショウジョウバエの複眼を赤くする遺伝子です。このw遺伝子の突然変異体は目の色が白くなるショウジョウバエで始めて見出された歴史的な突然変異遺伝子です。さて、この逆位を持った個体の眼色はというと、赤と白のまだら模様となります。一つの複眼の中に赤い細胞と白い細胞が入り混じるのです。まだらを英語でvariegationと言います。逆位によりw遺伝子の染色体上での位置が変化したことでvariegationが生じたことからPEV(Position Effect Variegation)と呼ばれます。この逆位はw遺伝子そのものには損傷を与えていません。赤い細胞ではw遺伝子が正常に働いているのです。一方、一部の細胞ではw遺伝子が働かず眼色が白くなっているのです。PEVはこの逆位に特異な現象ではなく、本来近傍になかったヘテロクロマチンが逆位などの変異で遺伝子近傍に置かれた場合に普遍的に観察されます。
 PEVではヘテロクロマチンが近傍のユウクロマチンにある遺伝子まで侵食してきてその遺伝子を不活化します。さらこうした不活化が細胞ごとにランダムに生じるのです。もう一つ重要なのは一旦ヘテロクロマチン化した細胞ではその娘細胞以下、不活化状態が維持されます。つまりヘテロクロマチン化が塩基配列に依存しないで起こりうるということを示しています。さらには、そうしたヘテロクロマチン化による遺伝子の不活性化が細胞分裂を経ても維持されるのです。これはまさしくエピジェネティクスの振る舞いです。
 ヘテロクロマチン化はエピジェネティクスの最も分りやすい例として研究も進んでいます。よく挙げられる例は三毛猫の毛色でしょうか。 これを説明するのには哺乳類特有のX染色体のヘテロクロマチン化という現象を説明しなければなりません。哺乳類では雌がXX、雄がXYという性染色体構成です。雌ではX染色体上の遺伝子の数が雄の2倍あるということです。この不均衡を是正するために雌では一本のX染色体を丸ごとヘテロクロマチン化し不活性な状態にします。これで雄と同じ遺伝子量に補正しているのです。母親由来か父親由来かどちらのX染色体を不活性化するかは発生の初期に細胞ごとにランダムに起こります。そして一旦ヘテロクロマチン化されたX染色体はその後の細胞分裂を経て引き継がれます。三毛猫の毛の色が生じる詳しいメカニズムはちょっと複雑なのですが、斑になる理由は毛の色に関する遺伝子の一つがX染色体上にあり、かつヘテロの状態にあることに由来します。仮にその遺伝子構成をO/oと表記します。大文字小文字でヘテロであることを示します。雌では片方のX染色体がランダムにヘテロクロマチン化されます。当然ヘテロクロマチン化された染色体上の遺伝子は発現できません。よって、上記個体ではOを発現する細胞とoを発現する細胞が斑状に混在することになります。これが三毛猫の毛色の秘密です。当然三毛猫は雌でのみ見られることになります。

次回に続く