今回はエピジェネティクスについて考えてみましょう。
 ジェネティクス とはgenetics、遺伝という意味です。それにエピがついてエピジェネティクス。エピとは外、追加などの意味があります。つまり本来の遺伝学が対象としていた遺伝子による遺伝現象以外の遺伝現象といえます。しかし、実際にはもっと限定的に遺伝子の塩基配列の変異に依存しない遺伝現象という使われ方をされます。さらに遺伝とは本来世代間を経た形質の伝達現象ですが、エピジェネティクスでは細胞分裂を経過しても引き継がれる塩基配列によらない遺伝要因という意味合いに使われます。同じ塩基配列の遺伝子を持ちながら異なる形質を示し、それが細胞分裂を経ても引き継がれるようなものといえます。
 遺伝子の分子生物学的な基礎が確立し、塩基配列の並びばかりが重要視されてきましたが、実際の生命現象にはエピジェネティクスが普遍的に存在し、非常に重要な役割を担っていることがここ10数年間のあいだに判明してきました。 そして現在もっともホットな研究分野として多くの研究者の注目を集めています。しかしながら、いまだ不明なことが多く、その役割、重要性についてはまだ過小評価されているように思えます。
 本稿ではそんなエピジェネティクスについて最先端の細かな分子機構の話は大雑把に済ませ、その背景、意義、役割などについて想像を膨らませ自由に考えてみたいと思います。 

 人間を含めて多細胞生物の体は生殖細胞と体細胞に分れます。生殖細胞は次世代を作るための細胞、すなわち精子や卵子になる細胞、そして体細胞は生殖細胞以外のその個体限りで死んでいく細胞です。生殖細胞のほうが重要に見えますが、実際には体細胞が体全体を構成し、運動、消化、吸収、排泄、代謝、分泌、神経、情報伝達、脳機能など多様な体の仕組みをすべてを作り出しています。こうした体細胞もすべて生殖細胞と同じゲノムをもっていることが明らかにされてきました。それはガードン博士と山中博士のノーベル賞の対象ともなった業績です。例えば腸の細胞と神経細胞では異なった遺伝子が働いています。腸の細胞では神経細胞でのみ必要とされる遺伝子は必要ないはずですが実際には温存されていますし、逆に神経細胞でも腸の細胞でのみ必要な遺伝子も温存されています。腸の細胞も、神経細胞も将来、子孫を残す必要もない死んでいく細胞であり、必要ない遺伝子を温存していくことは一見無駄とも思えます。しかし実際にはそうした無駄なことを生物は行っています(生物種、細胞種によっては例外もあります)。
 ここで注目しておきたいのは遺伝子が働くということについてです(発現するともいいます)。多くの遺伝子はRNAに転写されタンパク質に翻訳されることで機能を発揮し形質に影響します。つまりその遺伝子の最終産物が作られ機能を発揮している状態が遺伝子が働いているということです。逆に遺伝子が働かないということは最終産物の機能が発揮されない状態といえます。遺伝子を働かなくするには様々なやり方があります。容易に考え付くのはRNAが転写されないというものです。これではタンパク質は作られません。またRNAは転写されても何らかの方法で翻訳がブロックされタンパク質が作られないということもあります。さらにはタンパク質まで作られますがその後のタンパク質分子への修飾(翻訳後修飾という)が行われないために機能を発揮できないということもありえます。
 先の例であげた腸の細胞と神経の細胞ではおなじゲノム、つまり遺伝子のセットを持ちながらその働く遺伝子のレパートリーが異なることで異なった組織を形成しています。こうした器官、組織ごとで遺伝子の働き方のレパートリーを変える仕組みの多くがエピジェネティクスによっていると考えられています。つまり腸の細胞で働いている遺伝子のレパートリーは細胞分裂を経ても引き継がれます。このことは腸の細胞は一旦腸の細胞として方向付けられたら神経細胞にはなれないということです。基本的に不可逆的な分化なのです。このようにエピジェネティクスは生物の発生において極めて重要な役割を担っているといえます。発生とは一個の受精卵から細胞分裂を経て多様な細胞種が作られ個体を形成する過程です。それは細胞分裂により増えた細胞がエピジェネティクスにより決められた遺伝子のみを発現するようになることで成し遂げられるのです。
 先見性のある発生学者は30年以上も前から発生とは究極的には遺伝子の発現制御の問題であると提起していました。しかし、その発現制御の実体が分子レベルで明らかになってきたのはここ最近のことです。それには遺伝子研究に対する技術的進歩が必要であったこともありますが、もう一つは原核生物で見出された遺伝子発現の制御機構であるオペロン説の影響が強かったせいもあるでしょう。
 分子遺伝学の黎明期に多くの知見をもたらしたのは大腸菌など原核生物を対象とした研究です。ご承知のように原核生物は単細胞であり、その遺伝子発現の制御は可逆的なものです。周囲の環境の変化により遺伝子の発現が変化しますが、それは一時的な変化であり環境が元に戻れば 遺伝子の発現も元に戻る必要があります。すなわち個体間を経て遺伝する形質は究極的には遺伝子の有無や、突然変異など塩基配列レベルでの変異であり、エピジェネティクスのような機構は存在しません。
 オペロン説は大腸菌で見出された遺伝子の発現制御機構で調節遺伝子の産物が酵素などの構造遺伝子の上流(オペレーター)に結合することでその構造遺伝子からのRNAの転写が誘導ないしは抑制されます。真核生物での遺伝子発現制御もオペロン説にならって遺伝子上流部へ調節タンパク質が結合することで遺伝子のオンオフが決定されるとの考えが支配的でした。実際こうした制御もあるのですが、真核生物の遺伝子、そしてそれを取り巻くクロマチンと呼ばれる高次構造は原核生物に比べてはるかに複雑であることが判明してきました。そうした複雑さを反映して遺伝子の発現制御機構も複雑なものであることが分かってきたのです。 

次回に続く