ここしばらく続けてきた有性生殖に絡んだ話は一段落して、今回は別の話題を取り上げたいと思います。
 生物進化の謎の一つにカンブリア爆発があります。これはカンブリア紀の始まりに、多様な生物が一気呵成に現われたことを指します。ここで注意しておきたいことが2つあります。一つは地質年代の命名についてです。カンブリア紀とは約5億4200万年前から約4億8830万年前までの時期です。しかし地質年代の命名は絶対年代でなされたのではなく、主として地層とそこに含まれる化石を元に命名されました。そしてカンブリア紀とは、初めて顕著な化石が現われた時代として定義されました。カンブリア紀は古生代の始まりですが、古生代とそれに続く中生代、新生代を合わせて顕生代と呼びます。これは肉眼で見える生物が顕在している時代という意味です。よって、カンブリア紀の始まりに多様な生物が現われたという表現は本末転倒で、肉眼で見える多様な生物が現われた時期を持ってカンブリア紀の始まりと定めたというのが実情です。第2の注意点として、確かに肉眼で見える生物が顕在化した時代ではありますが、それは過去の古生物学が発見できた化石に残る証拠を元に定義されたことであり、カンブリア紀以前にも顕著な生物化石は見つかっていますす(エディアカラ生物群など)。また、生物は全て化石として残るわけではありません。柔らかい組織しか持たない生物や、微小な生物は化石に残りにくいですし、時代が古くなればなるほど化石が残るのに適した地層は少なくなります。よって、化石から過去の生物相を完全に把握するのは困難でしょう。今後、研究が進めば新たな手法や化石の発見により、生物進化の知見も大きく変わってくるかもしれません。
 そうはいっても化石に見られるカンブリア紀に起きた生物の一気呵成な出現は、奇妙奇天烈な形の生物の存在と相まって、一般の人にも良く知られた生物進化の一大トピックとなっています。
 何故このように多様な生物が一気に現われたかについて、眼の誕生が重要であったとの説が提唱され話題となっています。一般向けの書籍が出版され、翻訳がでていることで読んだ人もいることでしょう。 

「眼の誕生ーカンブリア紀大進化の謎を解く」
アンドリュー・パーカー(著)、渡辺政隆、今西康子(翻訳)
草思社

 簡単に要旨を紹介してみましょう。生物の形態、色、生態がいかに光に依存しているかということをページを費やして紹介しています。光の影響はそれを関知する器官「眼」なくしてはありえません。眼がない状態では、生物はよほど近づかなければ他生物を識別出来ません。しかし、眼があれば離れいても、どの程度の距離に、どの程度の大きさの、どんな動きをしている生物がいるかが一瞬にして把握出来ます。最初に眼を獲得した生物はなんと有利な立場に置かれたことでしょう。盲人が健常者に比べてどれほどのハンディキャップがあるかを見ればその影響の大きさがわかります。眼の誕生は補食ー被食という選択圧を劇的に変化させたと想像できます。眼を持つことで初めて補食のための手足も進化したことでしょう。遠くから相手を識別出来るからこそ、運動能力を発達させる意味も出てきますし、補足する為の器官も発達するでしょう。相手を追いかけるにしろ捕まえるにしろ、その多くを視覚に頼っているのです。一方、相手から見られるという状態は被食者の進化にも影響します。自分も眼を獲得するというのは重要な選択でしょう。眼のある相手に気付かれる前に察知するにはこちらも眼を獲得するしかありません。しかし、眼を持たない生物にも眼を持った捕食者から逃れるべく大きな進化が起きたでしょう。捕食者に見つからないような色、形などが生じてくるでしょう。できるだけ周りの環境に溶け込み捕食者の眼から逃れられるような進化が起きたはずです。そして固い殻に身を包むことで高まった補食圧を回避することも起きたでしょう。
 では眼の誕生がいつ起きたのでしょうか? 単に光を感じるだけでは上で述べたような進化の促進は期待出来ません。すくなくとも形を識別出来る眼が必要です。そしてそうした眼を持った最初の生物として、三葉虫がカンブリア紀に誕生しています(三葉虫が全て眼を持つわけではありません)。つまりカンブリア紀の爆発とは、眼を持った生物(例えば三葉虫)の誕生により、圧倒的に高まった補食ー被食圧に適応する為に起きたというのです。著者はこの考えを「光スイッチ説」と名付けています。
 多くの人が何故そんな簡単なことに今まで気がつかなかったのかと感想を持つようです。たしかに非常に単純な説明でありながら大きな説得力を持ちます。しかしあえて問題点も指摘してみましょう。筆者も書いているように、カンブリア紀の大爆発以前にすでに、現在見られる多様な動物の分類群は出現していたと考えられています。カンブリア紀の大爆発は既に出揃っていた各動物門の生物が一斉に化石に残り易い固い組織を獲得し、多様な形態を爆発的に進化させた時代と考えられています。光スイッチ説はカンブリア大爆発で見られる外形の爆発的多様性の出現を説明出来るかもしれませんが、より本質的な、多様な動物系統の出現には何ら答えを与えません。カンブリア大爆発が短期間に起きたのも、外形的には劇的でも、遺伝子の変化という意味では些細なものであったからこそ成し遂げられたとも考えられるのです。個人的に一番物足りなく思ったところです。あと光スイッチ説に対する不満ではありませんが、この本の主題はあくまで後生動物の進化です。カンブリア大爆発とは後生動物の大爆発なのです。動物は文字通り動く生き物です。だからこそ眼を始めとして様々な感覚器官を備えることに意味が出てきます。植物はどうでしょうか? 眼を持った植物など聞いたことがありません。眼を持って外敵を予め察知出来ても逃げるすべを持たなければ意味がありません。そうした動かない、固着生活を選択した生物も大繁栄しています。こうした生物一般の進化戦略については本書には触れられていませんが、読みながら頭の中ではもっと広く生物一般の生活史や生態型、そして感覚や機能の進化について想像が広がっていきました。とは言っても、眼から鱗、非常に興味深い説であることに違いなく、カンブリア大爆発に現われた奇妙な生物に興味をもたれた方は一読をお勧めします。 

(2013. 6. 21)