これまで有性生殖は多様性を作り出す、という長期的なメリットがある為に保存されてきたという話をしてきました。単為生殖など有性生殖を失った生物も見つかりますが、それらは進化の袋小路に入り込んでしまった為に、早晩絶滅する運命にあるだろうと多くの人は考えてきました。ところがこの考えを覆す生物がいます。それがヒルガタワムシです。ヒルガタワムシとは輪形動物門(りんけいどうぶつもん)に属するヒルガタワムシ鋼の仲間で、300種以上の種を含みます。1mmに満たない小さな生き物ですが主に淡水中に住んでいる多細胞生物です。乾燥にも非常に強く、完全に乾涸びた状態でも絶命せず、水をかければ再び動き出します。こうした能力をクリプトビオシスと呼び、クマムシや線虫といった動物でも見られます。この能力のおかげでヒルガタワムシは土壌中にも見つかります。道ばたの乾涸びたコケ(コケも高いクリプトビオシス能を持ちます)を取ってきて水に浸けておいたら、かなりの確立でクマムシや線虫と共に見ることが出来るでしょう。体の前端と後端を器物に固定して尺取り虫のように動きます。但し非常に小さいので少なくとも高倍率のルーペが必要です。このようにヒルガタワムシは全世界に多様な種を分化させた成功した生物群といえるでしょう。ところがヒルガタワムシの仲間からは雄が見つかりません。全て雌、つまり卵を産みます。そしてその卵は受精することなく発生し雌となります。つまり単為生殖しか見つからないのです。どうやら単為生殖だけで多様な種を作り出し、長年生き延びてきたらしいのです。
 これまでも有性生殖が見つからない生物は多数見つかっていました。しかし、それは本当に有性生殖が存在しないのか、単に見つかっていないだけなのか判断が難しいところです。普段は無性生殖で増殖していて、非常に特殊な条件でのみ有性生殖を行なうかもしれません。例えば菌類など有性生殖が見つからない菌が多数います。昔の分類では不完全菌と呼ばれる分類が行なわれていました。これは有性生殖が見つからない菌類のことです。菌類の分類はその有性生殖器官の形態から子嚢菌、胆子菌などと分類しますが、有性生殖世代が見つからないと分類のしようがないわけです。そこでひとまず不完全菌として無性生殖世代での形態から命名、分類を行なっていました。昔から日本人に利用されてきた麹菌なども有性生殖の見つからない不完全菌です。ところがそのゲノム配列を決定したところ菌類の性を決定している遺伝子が麹菌にもあることがわかりました。このことは麹菌も潜在的に有性生殖を行なう可能性を示唆しています。麹菌は有性生殖が見つからない為に通常の育種が行なえなかったのですが、有性生殖が見つかれば有用な麹菌の育種に繋がると期待されています。そして多くの不完全菌も潜在的に有性生殖を保持しているのではないかと考えられています。このようにある生物に有性生殖が本当に存在しないことを証明するのは難しいのです。
 もう一つの重要な点があります。それは例え有性生殖がないとわかっても、過去ずっと無性生殖のみで生きてきたのかどうかです。無性生殖をしている動物は通常さまざまな分類群で孤立して存在します。上位の分類群を構成している種が全て無性生殖をする例はほとんど見当たりません。また、化石から雌しか見つからない生物も見つかりますが、そうした生物はほとんど短期間で絶滅しているように見えます。こうしたことから、無性生殖に陥った種は進化的に発展性がないものと考えられていたのです。
 ではヒルガタワムシが何故注目を集めているのでしょうか? この生物群で雄が見つからないことは以前から知られていました。この生物に注目が集まるきっかけとなったのがサイエンスという著名な科学雑誌に載った次の論文です。
Evidence for the Evolution of Bdelloid Rotifers Without Sexual Reproduction or Genetic Exchange 
David B. Mark Welch and Matthew Meselson 
Science 288, 1211-1215 (2000)
ちなみに最初の2行が論文の標題、3行目が著者名、4行目が雑誌名、巻号、ページ(発表年)を表します。クリックすると出版社の該当論文のページに飛びますが、残念ながら要約のみ、全文は読めません。
 この報告をきっかけに、この生物の謎を求めて多数の仕事が出てきました。有性生殖の欠如した生物に対して「性のスキャンダル」などの見出しで記事が書かれてもいます。
 まずは上の論文の内容を簡単に紹介しましょう。ヒルガタワムシの属する輪形動物門はいわゆるワムシと呼ばれる生物で、ヒルガタワムシ綱以外のグループは有性生殖ないしは有性生殖と無性生殖の両方を行ないます。一方、ヒルガタワムシ鋼の生物は雄が見つからないことから全て無性生殖のみを行なっていると考えられています。しかし、上でも述べたように本当に無性生殖しか行なっていないと証明することはなかなか難しいことです。では、長年無性生殖のみで生きていたとしたらどういった事態が想定されるでしょうか? ヒルガタワムシの祖先は有性生殖をしていたと予想されます。よって2倍体であったはずです。無性生殖に切り替わるということは相同染色体間での組換えが無くなるということです。有性生殖の要点は異なったゲノム間の混ぜ合せ、つまり減数分裂時の非相同染色体のランダムな分離、そして相同染色体間の組換えにあるのです。そうした減数分裂がなくなったらどうなるでしょうか? 個体間のゲノムの混ぜ合わせが無くなり、ある個体のゲノムがそのまま子供世代に引き継がれます。各遺伝子は毎世代代わり映えのしないゲノム内で進化することになります。もはや相同染色体間に相同という概念が無くなったも同然の事態です。各相同遺伝子には機能的な制約はありますが、互いに独立な遺伝子として存在し進化していくことが予想されます。そうした状態が長く続けば互いに異なった配列になっていくでしょう。この論文ではこうした予想が実際に生じているかどうかを検証したのです。結果は上記の予想通りの、つまりこれまでの常識からはかけ離れた結果となりました。つまりヒルガタワムシでは有性生殖が長期間欠如しることを決定づけた報告となったのです。
 具体的にはワムシの中から有性生殖を行なうものと行なわないヒルガタワムシそれぞれ数種類を用いて4種類の遺伝子(hsp82, tbp, rpl3I, tpi)をPCRにより増幅しクローン化したのち、シークエンスを行ない配列を決定しました。なおこれらの遺伝子は少なくともハエや線虫では遺伝子重複によりパラログ(ゲノム内に複数の重複したコピー遺伝子)を持たないことが知られています。出発材料としたゲノムDNA一個体ないしは一個体由来の集団より抽出したものです。予想通り有性生殖を行なう種では各遺伝子、互いに非常に似通った2種類の配列が得られました。2倍体の2つの相同遺伝子由来の配列です。一方、ヒルガタワムシでは種により2~4種類の、配列が大きく異なった遺伝子を持つことがわかりました。同じ個体内のもっとも似通った配列間にも、有性生殖を行なう種での最も分岐した対立遺伝子以上の違いが見られました。このことは予想通り相同染色体上の相同遺伝子間で変異が蓄積した為と考えられます。なお、後の研究からヒルガタワムシの1種では4倍体であったことがわかっています。得られた配列を用いて系統解析を行なうと、ヒルガタワムシの共通祖先の時点で有性生殖を行なわなくなったことが示唆されました。すなわちヒルガタワムシの祖先は大昔(数千万年のオーダー)に有性生殖を失い、無性生殖のまま多様な種を分化させ繁栄してきたのです。
 この結果はまさしく「性のスキャンダル」と呼ぶにふさわしい事態で大きな注目を浴びました。そして新たな疑問を生み出したのです。すなわち、何故ヒルガタワムシは有性生殖をせずに長年多様な種を分化させて生き伸びてこられたのか? それは有性生殖の意義についても再考を迫る結果でもあるのです。 

(2013. 6. 14)